福 祉  『あるむの詩』30(2001.03)より

 「作業所」についての続きを書きたいと思いましたが、今回は少し福祉について「独断と偏見」を述べます。
 福祉業界では、二年後に「税から保険へ」という高齢者福祉に対する介護保険制度導入による大転換が、 障害者福祉にも及ぶという、いわゆる「2003(平成15)年問題」があらゆるところで語られています。 前回もふれましたが、「措置から契約へ」というスローガンであたかも、 「福祉は恩恵ではなく、サービスなのだ」という事がふりまかれています。

 介護保険について考えてみましょう。これは文字通り、国家財政の破綻(?)を前にして、 高齢社会化という現実に対する「大衆収奪」としての国民皆保険の導入であることはまぎれもない事実です。 しかし一面保険制度の導入によって老人介護問題が「家族制度の美風」なるもので、 家庭に、とりわけ女性にしわ寄せされ、閉じ込められてきたことを、社会全体で引き受けるための、 デモンストレーション効果がありました。
 しかし、ここでの根本は、国家財政のあり方であり、「税」に対する国家と国民の考え方です。 しかし、「福祉は恩恵だ」などと考えていたのは国家であり官僚であったのです。 大蔵官僚を筆頭に彼らが、悔い改めて、「サービスだ」と言い直したでしょうか。いえ、決してそうではありません。
 とすれば「眼高手低」で行きたい私たちとすれば、どんな風に考えたらよいのでしょうか。 「福祉」が何よりも老人にせよ、障害者にせよ、当事者の問題提起とあいまって前進してきたのは、 それが「力」となったからであり、その力が、社会を、そして行政を動かして来たということでしょう。 これが一切の出発点です。

 貧民救済が、国民に対する社会政策として生まれ、確立してして来た歴史の中に「福祉」はあります。 「貧民」から社会を防衛しなければならないという使命と、「貧民」の存在は、社会の浪費であり、 これを活用しなければならないという利害とあいまって、それこそ「恩恵としての福祉」が生まれ、 その為に国家は有産者たちからの税収のごくわずかな部分をふりむけたということです。 有産者の中には、「同情・憐憫」から自己の財産を救済へ使うといった「篤志家」もあらわれました。 (欧米では、逆に、「あいつはあれだけ稼いでいるのに社会に還元しない」という圧力もあるそうです。) もちろん、それ故、文化や社会の違いが、その「福祉」の内容を大きく左右してきました。相互扶助も、 共同体も、そうでしょう。大家族の「座敷牢」からポスト核家族の「孤独化」まで、 私たちの社会のあり方も転変してきました。

 神奈川県で障害者地域作業所が生まれたのは1979年だそうです。 79年の養護学校義務化、81年の国際障害者年、未だ世界的にも高度成長の余力が感じられる頃でした。 在宅か施設かという二者択一ではなく(とりわけ施設入所の様々な問題点も語られた頃であったと思います。) いわば第三の道として作業所が要請されたのでしょう。 そして「軽度」と言われる人たちの「就労」としての要望も決して少なくなかったのではないでしょうか。 あるむが、産ぶ声をあげたのは1984年でした。

 地域が世界と結びついている時代に際して、「福祉のスキマ」と云われた作業所が今や全国5000ヶ所を数える程になったという事は、 法│制度を当事者たちの力で変えてきた歴史でもある、と云えるでしょう。行政はこのスキマに手をのばし、 取り込もうとしているとも言えます。(例えば「小規模法人」問題。)多分「十五年問題」は国の思惑通り進みそうです。 歴史を逆行することは出来ませんし、「初心に戻る」ことさえはっきりさせておけば恐いものは何もありません。
 「福祉」は恩恵とかサービスとかではなく、「国家と社会の義務である」ということだけは、肝に銘じておきましょう。