共 働  『あるむの詩』27(1999.11)より

 聞きなれない言葉かも知れませんが、創立当初は「共働作業所あるむ印刷工房」という名称でした。 その後(1987年11月)「心身障害者共働作業所」と改称しました。
 「障害」を持つ者も、持ない者も、共に助け合って働く作業所!という趣旨を表すためにつくられた言葉が「共働」でした。 当時は現在のように所員・職員の区別はなく、全員が「平等・対等」の所員でした。 (思い返せば、あるむの給与体系の基本である「歩合制」も、全員が所員であるということから生み出されたものでした。)ですから、 この「共働」という言葉は、あるむにとって、とても意義深いものだと言えます。

 「自分の力で働いて、お金を得て、生活して行く。そんな当り前のことを障害を持つ仲間と共に、力をあわせてやってゆきたい。」 というあるむの理念は、現実には「生産性」という大きな壁に阻まれてしまいました。というより、大仰に言えば、「社会」という壁でしょうか。
 印刷技術者が一人加わっただけですが、「障害」を持つ仲間の方は、どんどん増えていきました。 10坪足らずのスペースに印刷屋としての必要最低限な機械類が所狭しと並んでいる中、五人、六人、七人と増えてゆきました。 機械と机の間を、体を横にしてやっと通れる、そんな風でした。

 障害者も働いている「印刷屋」なのか、印刷をやっている「作業所」なのか。多分、ここが分れ目だったのでしょう。 しかし、印刷技術者を新たに雇うことは全く不可能な状態(10万円の給料では、「見習い」ですら無理でした。)では、 公的援助を受けるという事は自然な成り行きだったと思います。「経営第一に」という事はあるむのとる道ではありませんでした。

 しかし、その出発からしてあるむは公的援助を受ける(認可作業所として補助金を貰う)ためには、余りにも規格外でした。 「障害」の種類・程度を問わないばかりか、「こうした作業所で働きたい人はどうぞ!」と市外(県外も)の仲間も受け入れてきました。 大和市の行政当局の理解と、地域の支援・協力がなければ認可を受けることさえ困難だったと思います。 そして、三年越しの運動の結果、1992年4月、大和市の認可作業所「障害者地域作業所あるむ」として、再スタートをしました。 (正式認可は5月)「印刷工房」という名称とともに、「共働」の文字も消えました。あるむにとって、新たな試行錯誤がはじまりました。 (この間の事情は「あるむの詩」No.15に少し触れてあります。)

 職員の賃金が基本的に市の補助金によって賄えるようになったこと、したがってあるむのメンバーは障害を持つ所員と、 それの援助者としての職員とに区分けされなければなりませんでした。そこで出されたのが「所員主体論」でした。
 あるむの運営の主体は所員であり、障害者である所員が市から補助金を貰い、健常者である職員を雇用する。 あるむの最高意志決定機関(まぁ国会ですかね)を「共働事業委員会」とし、そこでは所員のみを正式のメンバーとし、 職員は議決権をもたないオブザーバーという形になりました。

 しかし「代表」に選任された所員は余りにも過重な役割を負わされたと言わなければなりません。 例え「共働」の理念を共有していたとしても、現実のあるむの運営は生易しいことではありませんでした。 それとは裏腹に、制度的、行政的諸問題を含め、実際は職員である「所長」が担う。 「共働事業委員会」は「追認機関」にならざるを得ませんでした。「代表」は「所員の代表」であっても、「あるむの代表」たりえなかったのです。 もちろん、ここを制度上、突破するのは可能でした。つまり、「代表」を「所長」にしてしまうのです。 (こうした作業所は珍しくありません。)でも、それはあるむにとっては全く非現実的なものでした。 公的な(行政的)制約もしかることながら、作業所運営や印刷事業の経営責任が厳しく問われます。 嘘でもいいから「意志と能力」が必要とされたのです。そして、現在のような「共働事業委員会」になったのです。 これがとりあえずのあるむの現在です。(共働事業委員会細則をお読み下さい。)

 あくまでも、所員・職員は平等・対等であり、運営及び事業に関して職員は所員への協力、援助を行う。 しかし、これとて、両者の不断の努力(この言葉は余り使いたくないし、あるむにふさわしくはありませんが。) がなければ画餅に帰します。さて、あるむは何処へ!